商店街沿革&概要
150店
商店街店舗数
200万人+
年間来訪者数
20店
キムチ専門店
5店
蒸し豚専門店
御
幸通の3商店街は1600年の歴史ある御幸森神社のお膝元、東西500m程に約120店舗が軒を連ねる商店街です。大正時代にかつて猪飼野と呼ばれたこの近隣が人口の増加に伴い市街化していく中、大阪市立鶴橋公設市場が開設され、旧市電「猪飼野駅」に続く一条通商店街と交差する位置であったことから賑わいを見せ始め、国内にある他と同様な商店街として発展していきました。
現 在の生野区(当時は東成区(郡)の一部)は大正時代、大阪が大大阪(だいおおさか)と呼ばれた当時急速に市街化していき、多くの中小零細企業が集まりました。生活の苦しかった朝鮮半島の人々は既に韓国併合が行われていたことにより、日本に職を求めて渡航をする者が増加していきました。特に大正時代末期に就役した「君が代丸」により、済州島から大阪への渡航者が増大します(暫く後の昭和4年(1929年)に朝鮮半島を襲った大干ばつによる飢饉が渡航・移住に拍車をかけました)。その人々こそ経済成長著しい大阪の中小零細企業にあって特に避けられがちな労働や雇用需要を担ったのです。
出稼ぎ労働者が増えてくると、今度は同胞を相手に商売(といってもゴザに物品・食品を並べる程度)を行う人々が現れ始め集まり、その界隈が朝鮮市場と呼ばれるようになります(現在の御幸通の裏手)。その後戦争が激化し大阪にも空襲が行われると、それまで御幸通で商売をしていた旧日本人店主たちが疎開を始めるようになります。疎開にあたっては、「店舗は空襲の被害にあうかもしれない」「ほうっておいては店舗・家屋が痛む」と考えた旧店主達は、店を安く貸したり売ったりするようになりました。この時、御幸通の裏手で商売をしていた人たちを始めとして在日韓国・朝鮮人達が御幸通で店舗を構えるようになります。この頃を境に御幸通商店街が特異な商店街としての発展を見せ始めます。 昭和30年代から50年代前半にかけては日本の高度経済成長もあり、韓国・朝鮮の食品や物品がひとところに集まる商店街としてその隆盛期を迎えます。近隣の在日韓国・朝鮮人だけでなく、大阪府下を始め近畿地方の各地から仕入れに訪れる業者で商店街がひしめき合う状態となっていきました。
と ころが昭和50年代後半頃から陰りを見せ始めます。最初期の渡航者から数えると50年程経つ中で、在日韓国・朝鮮人の生活様式の変化、日本経済の成熟、後継者の不在等いくつかの要因が重なり、来街者が目に見えて減少していきました。そんな時危機感を覚えた当時の商店主たちが、御幸通をただの商店街で終わらせるのではなく、新たな顧客を呼びこむために特色ある商店街として訴求していく"コリアタウン構想"を掲げます。
しかし当初コリアタウン構想を立ち上げたとはいえ、社会見学やフィールドワークの学生等、新しい来訪者の方への対応に商店主達が戸惑いを見せるような状態が続きましたが、特徴的な門や舗装道路が完成し、その後日韓共催ワールドカップ、冬のソナタに始まる韓国文化への関心が高まると、御幸通商店街がコリアタウンとして注目を集めるようになりました。
現 在ではお買い物のお客様だけなくフィールドワークや社会見学、修学旅行の来街者も年々増加しております。国内でも特異な商店街の一つとなった今、多くの目的で来られる来街者と地域に寄与できるよう商店街活動に邁進してまいります。皆様のご来街をお待ちしております。
現 在の生野区(当時は東成区(郡)の一部)は大正時代、大阪が大大阪(だいおおさか)と呼ばれた当時急速に市街化していき、多くの中小零細企業が集まりました。生活の苦しかった朝鮮半島の人々は既に韓国併合が行われていたことにより、日本に職を求めて渡航をする者が増加していきました。特に大正時代末期に就役した「君が代丸」により、済州島から大阪への渡航者が増大します(暫く後の昭和4年(1929年)に朝鮮半島を襲った大干ばつによる飢饉が渡航・移住に拍車をかけました)。その人々こそ経済成長著しい大阪の中小零細企業にあって特に避けられがちな労働や雇用需要を担ったのです。
出稼ぎ労働者が増えてくると、今度は同胞を相手に商売(といってもゴザに物品・食品を並べる程度)を行う人々が現れ始め集まり、その界隈が朝鮮市場と呼ばれるようになります(現在の御幸通の裏手)。その後戦争が激化し大阪にも空襲が行われると、それまで御幸通で商売をしていた旧日本人店主たちが疎開を始めるようになります。疎開にあたっては、「店舗は空襲の被害にあうかもしれない」「ほうっておいては店舗・家屋が痛む」と考えた旧店主達は、店を安く貸したり売ったりするようになりました。この時、御幸通の裏手で商売をしていた人たちを始めとして在日韓国・朝鮮人達が御幸通で店舗を構えるようになります。この頃を境に御幸通商店街が特異な商店街としての発展を見せ始めます。 昭和30年代から50年代前半にかけては日本の高度経済成長もあり、韓国・朝鮮の食品や物品がひとところに集まる商店街としてその隆盛期を迎えます。近隣の在日韓国・朝鮮人だけでなく、大阪府下を始め近畿地方の各地から仕入れに訪れる業者で商店街がひしめき合う状態となっていきました。
と ころが昭和50年代後半頃から陰りを見せ始めます。最初期の渡航者から数えると50年程経つ中で、在日韓国・朝鮮人の生活様式の変化、日本経済の成熟、後継者の不在等いくつかの要因が重なり、来街者が目に見えて減少していきました。そんな時危機感を覚えた当時の商店主たちが、御幸通をただの商店街で終わらせるのではなく、新たな顧客を呼びこむために特色ある商店街として訴求していく"コリアタウン構想"を掲げます。
しかし当初コリアタウン構想を立ち上げたとはいえ、社会見学やフィールドワークの学生等、新しい来訪者の方への対応に商店主達が戸惑いを見せるような状態が続きましたが、特徴的な門や舗装道路が完成し、その後日韓共催ワールドカップ、冬のソナタに始まる韓国文化への関心が高まると、御幸通商店街がコリアタウンとして注目を集めるようになりました。
現 在ではお買い物のお客様だけなくフィールドワークや社会見学、修学旅行の来街者も年々増加しております。国内でも特異な商店街の一つとなった今、多くの目的で来られる来街者と地域に寄与できるよう商店街活動に邁進してまいります。皆様のご来街をお待ちしております。
大正11年(1922年)
君が代丸就役(大阪-済州島)
大正15年(1926年)
鶴橋公設市場開設(現、大阪市生野屋内プール)昭和2年(1927年)
市電、猪飼野停留所ができる昭和初頭期
御幸通商店街(組織)発足
現、御幸通中央商店街の裏手に朝鮮市場が発生
画像出典『大阪と半島人:内鮮同胞よ!』高権三著、東光商会書籍部刊、昭和13年
国立国会図書館 国図電1601044-1-296 号昭和20年頃(1945年)
御幸通商店街に韓国・朝鮮人が店を構え始める。昭和26年(1951年)
御幸通商店街(組織)が御幸通商店街、御幸通中央商店会、御幸通東商店街の3団体へ分化昭和48年(1973年)
新住居表示実施。地名「猪飼野」消滅昭和59年(1984年)
大阪青年会議所、韓国青年会議所によりコリアタウン構想の提案昭和63年(1988年)
ソウルオリンピック
平成4年(1992年)
御幸通東商店街(組織)、振興組合へ改組
画像は平成2年平成5年(1993年)
御幸通東商店街振興組合、御幸通中央商店街に門、道路舗装完成
※画像は平成28年8月平成8年(1996年)
御幸通東商店街振興組合、釜山チャガルチ市場と姉妹提携
平成9年(1997年)
初の3商店会合同によるイベント推進委員会を設置しての「生野チョアヨ!コリアタウン祭り」を同日開催(実施は3商店会各々)平成14年(2002年)
FIFAワールドカップ 日韓共催
平成20年(2008年)
初めて3商店会合同で実行委員会を立ち上げてのイベントを開催
平成26年(2014年)
御幸通商店街(組織)、街路灯建て替え
平成27年(2015年)
御幸通東商店会(振)、御幸通中央商店会、街路灯建て替え。
御幸通商店街(組織)、防犯カメラ設置
平成28年(2016年)
御幸通中央商店会、防犯カメラ設置
令和3年(2021年)4月
御幸森第2公園内に公衆トイレを設置令和3年(2021年)12月
3商店街が統合、一般社団法人大阪コリアタウンを設立
令和4年(2022年)11月
済州島 東門伝統市場との姉妹提携を締結